カテゴリー: 音楽ウンチク
プレイリスト 2005・1月


ニック・ケイヴ & ザ・バッド・シーズ
「アバトア・ブルース」
「ザ・リラ・オブ・オルフェウス」
Mute, 2004 (CDStumm233)
今月発表のプレイリストは私達にとっては普通ではない。HMVで、全て工場ラップされた新品を買い、おそらくは数百円をアーティストに還元しているのだ。だから、このレビューでは楽観的に始まりたいものだ。なぜなら彼等は長い事グループをやっていながらも素晴らしい仕事をし面白い事をやっているのだから。私達は沢山中古CDやレコードを買い20年前にも好きだった同じ音を繰り返し聴く。 けれど音楽は生き物だから過去に好きだった物が永久に作られるべきではない。それは良い事じゃない。例えばニック・ケイブの好き加減について言うと、彼の最盛期は80年代だ。もちろん私は不公平だ。なぜなら人々はニック・ケイブよりキュアーについて語りたがるものである。けれど、少なくともアルファベット順だと、ケイブはいいスタートを切っている。(CaveはCureより早いだけの話。)私は今週初め、ザ・バースディパーティを又聴いてみた。(「プレイヤーズ・オン・ファイアー」[Missing Link/4AD,1981]「ジャンク・ヤード」[Missing Link/4AD,1982])皆がメロディの美点を発見し音楽を楽しんで聴く様になってしまった今、聴き難かった。それらを聴いた直後「アバトア・ブルース」をかけてみた。これも又不公平っぽいが、とても面白かった。驚くべき事に最近のケイブのバンドは良くやっている。想像していたよりも新しいニック・ケイブにはザ・バースディ・パーティからの継続性が有る。「アバトア・ブルース」はここ数年のCDの中で、自信、積極性、切迫感に於いて最もパワフルなニック・ケイブである。ザ・バースディ・パーティ後のファーストソロアルバムの絶好調期みたいだ。これには言わんとする物語がある。彼にとって意外ではないが、しかしここでの斬新さは、それが社会へと繋がる物語である必然性がある事である。これはたぶん初めて、多かれ少なかれ社会への意見を込めたニック・ケイブレコードであろう。「ザ・リラ・オブ・オルフェウス」で、ケイブの製作はレオナルド・コーエン道に沿いながらも彼がとるべき大きな一歩を踏み出している。このレコードでのチャレンジは斬新である事ではない。メロディやアレンジや創作に於いてこのレベルはまれであったにしても、彼が以前同じ事をやったのを聴いた事がある。人がレオナルド・コーエンと比較したとしても、ここでは良い方に作用している。「ザ・リラ・オブ・オルフェウス」は彼のコーエン領域である歌い手の精神生活を現しているようだ。もし、「アバトア・ブルース」がその世界からはみ出したとしても「ザ・リラ・オブ・オルフェウス」が内側へ引き戻す。ニック・ケイヴの音楽は歌い手であるキャラクターが公な場で私生活を演じている様なものである。ケイブの現在のチャレンジは「アバトア・ブルース」と「ザ・リラ・オブ・オルフェウス」の相争う刺激を調和させる事だろう。なぜなら彼には両方が必要だし、協調された均衡の形をとり外側と内側の世界で最良に育って行くだろう。これらの新しいアルバムはこれを引き出す彼の十分な能力を見せている。昨年末ガーディアンのインタヴューでケイブは彼のバンドについてこう言っている。「我々は男子である。だから背広を着て仕事に行くのだ。」彼は彼の仕事を知っているしどうするべきかも知っている。
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ザ・キュアー
「ザ・キュアー」
I Am/Geffen, 2004 (UICF-1027)
ガーディアンの2001年のインタヴューでザ・フォールのマーク・E・スミスは「僕は時々メンバーにスタジオの間違った住所を渡すんだ。で、奴らがスタジオを見つけた時には、そりゃあムカついてるよ。でも、そっちの演奏の方がいいのサ。」この新しいキュアーのアルバムはそれ程ムカついた状態で録音された物ではないが、彼等の新しい米国人プロデューサーは全曲録音の前に「ワークショップ」を主張した。これは悪夢だった事だろう。可哀想なロバート・スミスは、20年以上のキャリアで初めて全曲の案時点で何を思って書いたか説明させられたのである。猛烈な口論があったにしろ、そのおかげで素晴らしいアルバムが出来たバンドは生き残った訳である。アルバム「ザ・キュアー」は彼等をまだ好きでは無い人々の中で耳の肥えたリスナーを見つけるべきではあるが、長い間キュアーを支持している私達をより魅了するアルバムである。これはこのレコードがひとり立ち出来ないという意味ではなく、彼等の以前の音楽を知っている方がもっと楽しく聴けるだろうという意味である。初期しばらくの間、私達はこのグループの将来に楽観視出来た。スミスはこのアルバム時にキュアー解散発表をしなかった様だが、それは良いサインだ。以前、彼は「ブロッドフラワーズ」(Fiction,2000)の頃、真剣に解散を恐れていた。数回の活動停止を起こし、フィクションレコードとの関係が終わり、スミスが40才になり、そして−−偶然かどうか分らないが−−世紀が変わった。だから、私達は「ザ・キュアー」を新スタートとして考える事が出来るのだ。確かに以前同様の関心事と趣味の同じグループだが。でも、(奇妙な事に、恐ろしいワークショップを受けた訳だが。)彼等自身はもっとリラックスしている。アメリカンポップメタルの新しい学校出身であるこのプロデューサーは、長い間のキュアーファンである。それに、バンドに怠惰やわがまま無しに前回より成長した首尾一貫した音をリリースする手助けをした。たぶん、ミュージシャンがムカつくと、より良い演奏をする説は本当なのだろう。
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レディオヘッド
「ヘイル・トゥ・ザ・シーフ」
Parlophone, 2003 (LC 0299)
レディオヘッドの最初のヒットシングルの悪印象のせいで彼等に辿り着くまで長い時間がかかってしまった。まあ、いずれにしても彼等のファーストやセカンドは余り好きではないが。けれど、現在彼等はその頃からすると進歩目覚ましい。彼等の最新フルアルバムは評論家達やファンが望む後光を放っていないが、これは同様に素晴らしいレコードだ。ギターはこのグループにとって興味深い風向計である。時々フィリップっぽい音、時々ジョニー・マーっぽい音、又ある時はジョイディビジョンでデモンストレイトする。概して、ポップミュージックのより良いアイディアに基づいた自然な発展は過去20年かそこらからだ。これは私の音楽体験から言える。確かに、レディオヘッドの中にピーター・ガブリエルのジェネシスのエコーも聴こえるのである。彼等は度々ニュー・ピンク・フロイドと呼ばれているが、マガジン時代の「セカンドハンド・ディライト」(Virgine, 1979)と良い比較になるのではないだろうか。頭の中でハワード・デボット(マガジン)とトム・ヨークの声を交換出来れば、この比較はもっと面白くなる。ロジャー・ウォーターやディビット・ギルモアでやるより、これはもっとよく納得出来ると思うのだが。レディオヘッドは「ヘイル・トゥ・ザ・シーフ」で特に見られる様な独特の才能がある。そして、評論家が望んだ位置まで自身を高めた珍しいバンドになった。彼等はポップミュージックの発展と育成の許容量に希望を与える本当に面白いグループである。ベストポップにはいつも多少の畜産業っぽさがあるものだが、レディオヘッドも例外ではない。「ヘイル・トゥ・ザ・シーフ」では80年代後半のREMブームを思い出す事さえ出来る。明瞭でないヴォーカルとバンドが書きなぐったジャケットアートワークと、歌詞の謎の引用とそれ以外の全てにREMっぽさがある。けれども、又、REMが決して出来なかった多くの事もある。スタンダードポップと同じ様にジャズやファンクの影響を受けたと思われる余分な物を排除したベースライン、素晴らしいシーケンサ、それに革新的な演奏等である。合わせ目が裂けたり、支離滅裂さに崩れる事無しのサイケデリックとプログレッシブとポスト−パンクとその他からの多種多様なポップの融合体である。これはもし私に時間があって適切なトレーニングをしたとしたら、やってみたいタイプの音楽であると思う。誰か他の人が大なり小なり似た様な影響で育まれたのを知って、勇気づけられる。ポップミュージックが進むべき道があり、レディオヘッドはその先頭にいる。
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レディオヘッド
「コム・ラグ」
Parlophone, 2004 (TOCP-66280)
これは、「ヘイル・トゥ・ザ・シーフ」のライブ録音とたぶん、その中の未リリース曲を交互に入れたものだ。レディオヘッドはこんな感じの編集で本物のアルバムの余白を埋めたがる。大抵のグループに関してこれは悪い兆候だが、彼等は違う。レディオヘッドの特徴のひとつは、ライブと編集アルバムはスタジオ録音アルバムと同じかそれ以上に優れている事だ。「コム・ラグ」は日本のみのリリースだと言う事だが、BBCが彼等のレディオヘッドのディスコグラフィにこれを載せて以来、私達が持っているのはたぶん既に何処かにあった何かの日本版ではないかと多少疑っている。通常彼等の日本ツアースケジュールと偶然に一致するミニアルバムを買うが、もしこれもそうだとするとこれは特に素晴らしい。評論エッセイだらけの小さな挿入本、それに妙にわびし気な日英の歌詞もはいっている。レディオヘッドのレコードに歌詞カードを挿入するべきなのだろうか?REMがやった様に各曲からちょっとずつの抜粋はいいのかもしれないが。これは誤解を導くかもしれない。なぜなら、音楽と言葉の影響は言葉そのものの影響とは全く違うからだ。音調や雰囲気の問題だからだ。評論家は度々レディオヘッドアルバムのとてつもない憂鬱さを非難し、音調に不平を言う。怒りは良しとして、暗さ、憂鬱さ、陰気さはもっての他という訳らしい。これは大抵の評論家が持つ美術学校に在籍したとか文学学士で 無茶な行動をしないポップミュージシャンに対する恐怖症に起因している。憂鬱で陰気なポップミュージシャンが裕福になる事への反感が激怒のわめき声に変わるからである。裕福になっても憂鬱でいられるものだろうか?と。ニック・ケイブは美術学校出身であるがその罠から免れている。レディオヘッドメンバーは同じ私立学校から良い大学へ行き最初のメジャーシングルで金持になった。いい標的になる訳だ。 残念な事だ。本当に。知的ポップミュージックに期待するべきだし、ドラマチック感の育成を恐れてはいけないのである。幸運にも、レディオヘッドは特等席でわめき声に悩まされる事無く彼等の行くべき道を快進中である。私達は彼等がどうするか楽観的に待つのだ。
CR, January 2005
2005年1月22日
