カテゴリー: 日本の探偵小説

「探偵小説四十年」その二

乱歩自身は長篇は苦手だったと書いている。自分で選ぶベストも初期の短篇だ。その頃は書下しではなく、新聞用の長篇が後で本になっていたらしい。本人によると、どうしても全体の構成を決めて書き始める事が出来なかったらしい。だから行き当たりばったりになって苦しい思いをしたのだ。どうしてかと問われても本人にも理由が解らなかったらしい。新聞なので頻繁な締切に加え毎日短い話の中に山場を作らなければならないのだ。蓋をあければ読者の反応は良かったのだが、本人としては苦手意識は強まるばかりだったのかもしれない。

また、この本で何が「D坂の殺人事件」「屋根裏の散歩者」「人間椅子」「鏡地獄」のアイディアになったのかが分かる。(面白いけれども、ここには書きません。)「閃き」という言葉がピッタリで、とてもオリジナリティ溢れるものだ。短篇だと原形に沿った雰囲気で話を書き進められたのだろう。長い話だと書いているうちに最初の意図から離れてしまう事もあったらしいから。

大正12年に「二銭銅貨」で作家デビュー。
大正14年に専業作家になる。作家としての最良の次期だったと後日考えるのだが、その2年位の間に自身では「小説力」なるものが枯渇した様に感じ昭和2年第一回目の休筆宣言をしてしまうのである。時代が望んでいるモダンで明るいものが自分の作品とは相反しているとも思えたのである。
14ヶ月後中編「陰獣」執筆。当時の「新青年」編集長横溝正史に大絶賛され、読者にも好評。雑誌であるにも関わらず第三版まで増刷された。
その後、自分の事を「売文主義」になり「虚名大いにあがる」と自己卑下状態になっていき、次第に人嫌いにもなって行くのである。エロ・グロという言葉も一人歩きしていった。
昭和7年二回目の休筆宣言。
昭和8年「新青年」11月号に「悪霊」を書く迄約20ヶ月間放浪の旅に出る。云々。
その頃、乱歩の名前は俳優やアナウンサー、スポーツ選手と列んで有名になっていた様だ。今以上にゴシップの対象になっていたのかもしれない。思う事も多かったのだろう。(もっともそこまで高名になったから、後々迄名前が残ったとも言えるが。)

ところで、両休筆期間は全集の印税が生活の糧になっていたという。乱歩は昭和初期から現在に至る迄大量の全集を出している。

その話をクリスにしていたら「外国には全集が無い。」と意外な事を言った。よくよく聞くと、例えばシェークスピアは全集がある。けれどもクリスティーやクィーンの全集は無いのだ。日本とは全集の意味合いが違うらしいのだ。外国の全集は文学研究を主に目的としていて一般読者を対象としていない。だから価格もそれなりに高いらしい。

それを聞いて、私は「外国だったら乱歩の随筆をまとめて買うなんて事、出来なかったのかもね〜。」と考えたのだった。乱歩は小説を書くのが困難だった次期、所謂「お茶を濁す」形で多くの随筆を書いていたのである。小説類がやはりメインなのだから通常それらは全集の(言葉は悪いが)付加物なのである。産物なのである。でも、それを読んでみたかった私なのだ。

-YS, 2006年3月17日

2006年3月17日

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